桓檀古記の驚くべき妄想① ~日本に関連した部分を中心に~
『桓檀古記』 の驚くべき妄想①
更新履歴 令和4.12.15開設
[このページの目次]
■神武天皇とその父ウガヤフキアエズ尊が檀君の部下??
■スサノオ尊までも侮辱?
まえがき ━━━━━━━━━━ 桓檀古記(かんだんこき)をご存じだろうか? 悪名高い偽書なのだが、実は多くの韓国・朝鮮人によって本物と信じられている(自称)「歴史書」なのである。 それは、「檀君」朝鮮と呼ばれる超古代の君主の歴史を記した書物であって、 日本でいえば竹内文献のような、「古史古伝」と呼ばれる類のものに過ぎない。 ところが、朝鮮半島では圧倒的な人気があり、民間団体が韓国政府に対して、「この歴史を 教科書に取り入れるように」と強烈に要求する運動まで起こしたことがあるほどなのだ。 さすがに、韓国の学者の多くはこれを偽書と認定しているのだが、 韓国政府は一応それにならいつつも、別の檀君系偽書については 古書と弁護するなど微妙な様子を見せている。 そのためネット界含め 民間では桓檀古記を狂信的に讃える声が止まない。 その主張の中に、実は日本や皇室に対する侮蔑的言辞が多く存在している。この点は問題だろう。 偽書だから放っておけばよいという意見も散見されるが、 ただ嗤っていれば済むのだろうか? 超古代、檀君(だんくん)という伝説上の君主がいたことは、日本でいえば鎌倉時代にあたる13世紀の僧侶一然が 著した『三国遺事』という書物にごく短く載せられている。(注1) あくまでも伝説上の存在のはずだが、この檀君時代を、具体的な王朝のように記した偽書が桓檀古記だ。(注2) 桓檀古記によれば、檀君王朝の版図は、朝鮮半島だけでなく満州・東北アジア方面から 中国・モンゴル等の一部にも及ぶ膨大な広がりを見せていたといい、 韓国のネット界はこの過去の偉大な韓民族の「栄光」を称えるページに満ちている。 (「桓国」で画像検索するとすぐ出てくる。) 本来の檀君に関する13世紀の時点におけるわずかな物語が、時代の経過につれ膨れ上がっていったことは 朝鮮の各種の書物の記載を調べれば明らかなのであるが、その最後の「特大加筆版」のようなものが 桓檀古記なのである。 ということはつまり、その内容のほとんどは空虚で、信用できないということになる。 そのなかでも特にひどい例が、日本に関する記載だ。 「神武天皇はもともと半島にいた檀君王朝傘下の一酋長で、檀君の何代目かの王に命じられて 半島から日本列島に渡り現地住民を平定した」 もしくは 「檀君に命じられて日本列島を制圧した人物が立派なので、その名前だけ借りて 架空の初代天皇(神武天皇)を日本の昔の政権が捏造した」 などといわれたらあなたは、どう思われるだろうか? 実際、桓檀古記を「根拠」としてそのような主張をするページが存在しているのだ。 そこで今ご覧頂いているページでは、桓檀古記の日本関係の記述を採りあげ、 その「超トンデモ」ぶりを皆さまに紹介できればと考えている。 |
■神武天皇(幼名 狭野尊)とその父ウガヤフキアエズ尊が檀君の部下??
次の記述に注目されたい。 『桓檀古記』 檀君世紀より(注・原文はwikisourceを参照) 三十五世檀君沙伐 (中略)戊午五十年、帝、将・彦波不哈を遣わし、海上の熊襲を平らげしむ。 [現代語訳] 三十五世檀君沙伐は、在位五十年目の戊午の年、彦波不哈という名の将を派遣して、海上の熊襲(くまそ)を平定させた。 三十六世檀君賣勒 (中略)甲寅三十八年、陜野侯裵槃命を遣わし、往きて海上を討たしむ。十二月、三島悉く平らぐ。 [現代語訳] 三十六世檀君の在位三十八年目甲寅年に、陜野侯裵槃命という人物を派遣して、(半島から現地に)行かせて海上を征討させた。 十二月、三つの島はことごとく平定された。 熊襲(くまそ)といえば、かつて九州の一部にいて、朝廷に反抗的だったと日本書紀に記録されている 勢力のことだが、なんとここでは檀君朝鮮の帝王が熊襲の征伐を命じたという。 「海上の熊襲を」とある以上、この熊襲は大陸内の存在ではなく、日本列島内の存在を表すと見られる。 その次の檀君の代にも「海上」征伐が「陜野侯」により行われている。そして、平定の対象が「三島」(三つの島) と記されているところが要注目である。 この平定対象「三島」だが、明らかに日本列島に属する島を指すと考えられるのだ。 なぜなら、陜野侯による征討が桓檀古記の別の箇所でも触れられているからだ。その記載(下記)と照合すれば分かる。 『桓檀古記』 太白逸史 三韓管境本紀 馬韓世家下より 甲辰、子 弓忽 立つ。 甲寅、陜野侯に命じ、戦船五百艘を率い、往きて海島を討ち、倭人の叛を定めしむ。 [現代語訳] 甲辰の年に、子の弓忽(きゅうこつ)が即位した[注 弓忽は檀君の傘下に属する馬韓の支配者]。 甲寅の年、陜野侯に命じて、戦船五百艘(そう)を率いて(半島より)行って海島を討たせ、倭人の叛乱を平定させた。 ここに倭人とあることから分かるように、三島とは日本の三つの島を指し、 少なくとも九州島を含むと思われる(九州・四国・本州?)。 では、桓檀古記によれば日本を制圧したことになっているこの「陜野侯」とは、誰を指すのだろうか。 この「陜野」の名に注目されたい。 陜は、日本ではあまり頻繁に使われない字だが、「キョウ・せま(い)」などの読みがあり、実質「狭」と 同じ字と言える。そこで陜野を「狭野」と変換してみると、実はそれは神武天皇の幼名「狭野尊(さの の みこと)」と一致することに気付く[注3]。 偶然だろうか? 「陜野侯」が海上に派遣されたという「三十六世檀君の在位三十八年」は、紀元前667年に当たる (韓国の各種ブログなどにもそのような年表が掲載されている)。 一方、日本書紀において九州から出発された神武天皇が畿内に入り即位された年は、日本書紀では西暦に 換算して紀元前660年にあたる年なのである。 すると「陜野侯」の倭人平定と神武天皇(狭野尊)の東征の時期が非常に似通ってくることになる。 偶然だろうか?とてもそうは思えないだろう。同一人物とすれば神武天皇を檀君の部下扱いしていることになる。 これをさらに裏付ける記載がある。上記、三十五世檀君の引用中に登場する、熊襲を征伐した人物「彦波不哈」に関する記述だ。 神武天皇の父は、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけ・うがや・ふきあえず の みこと)という方であるが、 この御名前と三十五世檀君の時に熊襲征伐を行ったという人物「彦波不哈」とを比べて見て頂きたい。 「彦波瀲武鸕鷀草葺不合」の名から「瀲武鸕鷀草葺」の6文字をカットすれば「彦波不合」となるのがわかる。 合と哈は似た字で、音読みもゴウで共通する字である。「彦波不哈」とほぼ同じといえる。 そして、桓檀古記の他の登場人物(例:余守己)と比べても「彦波不哈」はかなり変わった名前であることも注目される。 とすれば、桓檀古記の偽作者が、ヒコナギサタケウガヤフキアエズ尊の御名前を一部カットした上で わずかに字をアレンジして、彦波不哈なる架空の人物を創りだしたという手口が見えてくるのである。 そもそも、桓檀古記は漢文で書かれた朝鮮の書物なのだから、彦波不哈を日本の訓読みで読むことは できないはずだ。つまり桓檀古記上この人物の名は音読みで読むべきということになる。 (日本音でゲンバフゴウ・朝鮮音でオンパフハプという名の人物ということになるはずだ。決してヒコナギアエズと は読めない。) このことから推察すると、桓檀古記の偽作者は日本書紀(漢文で書かれている)を持ち執筆の際 参照してはいたが、その振り仮名や送り仮名などを無視し、純粋に漢文として中国人が 読むような感じでしか日本書紀を読めなかった人物であると考えられる。 つまり彦波瀲武鸕鷀草葺不合の正しい読み方をヒコナギサタケウガヤフキアエズであると把握できない人物 であるということである。把握できていればヒコナギサ~などを漢字の宛て字を用いて表現できたはずだからだ。 さらに別の言い方で説明してみよう。そもそも、ヒコナギサタケウガヤフキアエズという御名前はもともと 古い日本固有語と思われ、漢字の表記は後で付けたものである。(そのため古事記では彦波限建鵜草葺不合と 表記されている。) そのため表記よりは発音が大切なものなのであるが、桓檀古記の偽作者には、そのことの感覚がなく、 彦波や不合を、もともとの名に含まれていた重要要素と捉えて彦波不哈(ゲンバフゴウ・朝鮮音でオンパフハプ)という 人物を作出してしまったのだ。 (それゆえ、彼らが無理やり自らの立場を正当化しようとすれば 「もともと彦波不哈(ゲンバフゴウ・オンパフハプ)という名前だったのを日本人がアレンジして彦波瀲武鸕鷀草葺不合 としたにすぎない」ということになる。 しかし、どうみてもこのような無理が通るわけがない。 とすれば、もはや日本の神の名に対する侮辱でしかないのである。) このように、三十五世檀君の時の人物とされる「彦波不哈」とは、 神武天皇の父・ヒコナギサタケウガヤフキアエズの名をアレンジしたもので、神武天皇の父を 半島出身の檀君の部下と匂わせる邪悪な意図が感じられる[注4]。 以上のことからすれば、三十六世檀君の時の人物「陜野」も、 神武天皇の幼名「狭野(尊)」をもじったものと見て間違いないだろう。 (陜は朝鮮の書物で他の古代人名にも使われているため、この字を使用する発想は彼らにとっては容易 に得られる。) そして陜野(侯)という人物は桓檀古記のこの部分では檀君の配下の将とは書かれているが、 別の箇所では(後述のように)檀君に反逆した酋長の子孫の家系であるとされており、要するに ロクでもない人物が半島から海を渡って日本で自立したといいたいらしいのである。 すなわちこれは神武天皇をひそかに侮辱する偽史といっても過言ではない。 偽作者は、「陜野(侯)」の討伐の時期を神武天皇の東征の時期に一致するように細工したのだろう。 しかしそもそも、神武天皇以下数代の天皇のご寿命がやや長めに設定されていることは多くの学者が 指摘するところであり、上古の王朝を神聖化するためのものとしてむしろ自然なことといえる。 それゆえ、神武天皇実在説を前提としても、その即位年は紀元前660年よりは繰り下げるのが自然である。 とすれば、このようなことにも配慮できずに桓檀古記の作者はこの部分を妄作したことになる。 戦前は神武天皇即位年=西暦紀元前660年というのが常識だったから、この常識に従って作ってしまったという 経緯が想定できよう。 この彦波不哈や陜野侯については、古史古伝研究で有名な吾郷清彦氏や佐治芳彦氏がかつて (桓檀古記を出版したことでも有名な古史古伝研究家鹿島曻氏が死去した後の座談会で) 「なんでゲンバフゴウなんでしょうね」「わたしもおかしいと思っていた」などの会話を 交わしていたという事実がある。なので、一部の人にとっては周知の事実のようではあるが、 一部の国内の著書ではこのネタを桓檀古記に好意的な方向で採りあげている書物もなくはない。 この問題につき正しい指摘をするサイトがあまり見当たらないことから、今回 採りあげさせて頂いたものである。 (なお、陜野侯裵槃命という人名の「裵槃」がどうやって作りだされたかについては頁末の補注C参照。) 注1 檀君 僧侶一然が著した『三国遺事』に簡略な記載がある神で、 中国の伝説時代の皇帝「堯(ぎょう)」と同時代に平壌を治めたという。 僧侶が創作した神に過ぎないとする説も有力だが、一方、 檀君は北方種族の神ではあると認めつつ、 現在の朝鮮人がまつるべきなのは新羅の神であって檀君ではないとする説もかつて日本の学者によって唱えられている。 いずれにしても、檀君が朝鮮人全体の始祖という位置付けになったのは13世紀以降のことに過ぎない。 注2 桓檀古記 参考:Wikipediaの桓檀古記の項目 内容のほとんどは16世紀初期までに成立したという建前となっており、それらを併せて1911年に 印刷した書であるという(1911年版の存在は未確認)。 李裕岦がさらにそれを1949年に清書させ、1979年に印刷したというが確認できるのは1979年の印刷版のみである。 注3 陜野の表記について、本頁末の補注B参照。 注4 彦波不哈について、本頁末の補注A参照。 |
■スサノオ尊までも侮辱?
さらにいうと、実は遡って三世檀君嘉勒の項目に次のような記載がある。 『桓檀古記』檀君世紀より 三世檀君嘉勒 戊申十年、豆只州の濊邑叛す。 余守己に命じて、その酋、素尸毛犂を斬らしむ。 是より其の地を称して素尸毛犂と曰う。今転音して牛首国となる。 其の後孫に陜野奴なる者有り。海上に逃れて三島に拠り、天王を僭称す。 [現代語訳] 在位十年目の戊申の年に、豆只州の濊人(わいじん)の集落が反乱を起こした。 そこで(檀君の側では対策として)余守己という人物に命じ、その(反乱を起こした)集落の 酋長のソシモリ(という人物)を殺させた。 これ以降、その土地のことをソシモリと呼んだ、今、音が変化して牛首国となっている。 その(酋長)ソシモリの後世の子孫に陜野奴という者があった。 (彼は、半島から)海上に逃れて、三つの島を根拠地として、(自ら)「天王」と僭称した。 この「『(三世檀君の時に退治された)ソシモリ』の後世の子孫の陜野奴」は 先ほど見た(三十六世檀君時代の)陜野侯と同じ人物なのだろうか。 両者とも、「海上」に行って、「三島」(三つの島)を制している点が共通している。 また、陜野侯は神武天皇をあてこすったものとしか考えられないのは上で見た通りだが、 陜野奴も「天王」と僭称したとされる人物である。 とすれば、両者は同一人物と考えるのが自然だろう。 確かに、一方(陜野侯)は命令を受けて三島に渡っており、 もう一方(陜野奴)は海上に「逃れた」となっている点が、一見矛盾するようにも思える。 しかし、陜野侯は王命を受けて日本列島の三つの島を討った後帰還せずにその地で自立したということ を言いたいのであろう。そのことを三世檀君嘉勒の項目では「逃れて」と表現したようだ。 (ちなみに三十六世檀君賣勒の項目で、「その地で自立し王となった」という記載がないのは、 その項目で自立のことを書けば檀君賣勒にとって不名誉な事象となるので、 そこでは省略したということであろう。) (もっとも、韓国のサイトではしばしば陜野奴と陜野侯は別人と解釈しているようだ[前者は神武天皇で、 後者は神武天皇の兄の稲飯命だとする]。 しかし幼名が狭野尊であるのは神武天皇であって稲飯命でない点に難がある。 いずれにしても、一族で日本列島を制圧しているという説だから、話に大きな差があるとはいえない。 [補注C参照。]) このように見てくると、桓檀古記において、三十六世檀君時代に倭人を平定した人物「陜野」(神武天皇を意識したキャラクター)は、 「ソシモリ」という名の、超古代(の半島の濊の集落の)の酋長(で檀君に対して叛乱を起こし 殺された人物)の、末裔ということになる。 このような日本人に対する侮蔑的目線で書かれているのが桓檀古記ということになる。 「陜野」が神武天皇のことを意識したキャラクターであるとすれば、その祖先の「ソシモリ」についても 何らかの人物が意識されているのだろうか?答えはイエスである。 そもそも神武天皇は女神・天照大神の長男である天忍穂耳尊(あめの おしほみみの みこと)の玄孫(やしゃご)にあたる。 この天忍穂耳尊は、天照大神とスサノオ尊の高天原における誓約(うけい)によって生まれた子である ため、捉えようによっては天忍穂耳尊はスサノオ尊の子ともされることがあるのだ。 そして、スサノオ尊については、日本書紀の「神代 上」の本文で、高天原からの追放後、出雲の国に 降り立つ物語が語られているが、この本文に併記された異説である「第四の一書」においては、 少し違うバージョンが語られている。 それによると、高天原からの追放後、一旦、子の五十猛神をひきいて(朝鮮半島の)新羅の「曽尸茂梨(ソシモリ)」 という所に降りた上で、そこには居たくないと仰せられた上で舟で出雲の国に入ったとされている。 この曽尸茂梨と言う場所が半島のどこなのか争いがあるが、戦前から有力であった解釈方法が、 ソシモリを「牛の頭」という意味の古語と解し、「牛頭」に関係する地名の中から比定地を求めるという ものだ。そして比定地の中でも最有力の一つが半島の春川という場所であった。(三国史記という書物によれば かつてその一帯を牛首州・牛頭州と呼んだとされていることが根拠。) ここでもう一度桓檀古記の表現を確認してみよう。 「・・・酋長のソシモリ(という人物)を殺させた。 これ以降、その土地のことをソシモリと呼んだ。今、音が変化して牛首国となっている。」 実はソシモリという地名は、桓檀古記以外では 「日本書紀 神代 上 第四の一書」にしか登場しない地名でなのである。 このことは案外重要である。 そしてその地名は日本書紀ではスサノオ尊にゆかりのある地名とされている。 とすれば、桓檀古記におけるソシモリという酋長はスサノオの尊を意識した捏造キャラクターではないか。 桓檀古記では酋長のソシモリは殺されているので、その点は確かに異なる。 しかし、その「陜野」という人物はそのソシモリの子孫とされる。 一方、先ほど述べたように、解釈によっては神武天皇(狭野尊)はスサノオ尊の子の天忍穂耳尊の子孫ともいえる。 さらに、神武天皇の前、天照大神までの各代は、それぞれ悠久の年月の在位があったという考えも 中世以来存在している。 またやや雑な考え方かもしれないが、日韓併合期には 半島の春川という土地を高天原的に捉える主張もなされていたようだ。 以上のことを総合的に見れば、①超古代のスサノオ尊が半島の「ソシモリ」という場所(具体的には春川など) にいたことにし、②その子の天忍穂耳尊の曾孫・ウガヤフキアエズ尊のそのまた子である神武天皇が日本列島へ 渡ったことにしようと桓檀古記の著者がたくらんだのではないかと考えられる。 桓檀古記の著者は結局、スサノオの尊を皇室の先祖的な意味で把握した上で、それを「三世檀君に反逆した 濊族の酋長ソシモリ」として嘲っていることになるのである。 このような史観が、国営の掲示板などにも普通に投稿される状況が韓国では起きているのだ。 このような状況をいかがすべきであろうか。 少なくともこのような状況が発生していることは、強く認識しておくべきであろう。 春川などの土地が高天原的に取りざたされたのは明治時代以降であることからすると、そのような状況を踏まえて 桓檀古記が作成されたと見るべきだろう。 桓檀古記のうち、「檀君世紀」の部分の著者は李朝期の前の高麗朝の人物とされるが、到底信じられるものではない。 檀君神話については、日本では①僧侶が創作した神話という説が通説的見解(②は少数説)で、一方韓国では②実在の神話という 見解が普通だ。 そして、韓国の場合、②a檀君が神話上の存在に過ぎないという説と②b現実の支配者として何らかの形で 存在したという説に分かれているという(韓国の教育では②b説を採用)。 ただ、①②a②bどの説に立ったとしても、(特に②bの説に立ったとしても)、その檀君の物語とくに その在位期間・代数・統治範囲などが桓檀古記の内容と一致する必然性は、全くないといってよいだろう。 なのに韓国では桓檀古記を否定するだけで、「日本のまわし者」扱いされて罵られることが多いらしい。 これは異常なことではないだろうか。 韓国のことだからといって放置するのが日本的な処理ではあったが、今やこの 桓檀古記史観が世界へまき散らされるところまで来ている。 また、部分的には類似した史観が学校の歴史教科書にも採用されていることから、この問題の与える 影響は予想外に大であり、ただ無視していればよいかは検討を要する問題ではないだろうか。 以 上 補注A 彦波不哈=ヒコナギサタケウガヤフキアエズ尊という解釈については、 もともと、かつて鹿島曻氏が桓檀古記を出版した際の解説に、細部は若干異なるが含まれていたものである。 故・鹿島曻氏の出版によって桓檀古記が半島で有名になった経緯はあるが、この部分についての鹿島氏の解釈は 彦波不哈をウラルトゥ王朝の人物と解するトンデモ解釈である。 一方韓国はこれを朝鮮の人物として九州を平定した云々と解釈し直しているのである。 したがって、現在の解釈についての責任は彼らにあるといえる。 補注B 陜野の表記について 後世の朝鮮の書物『海東諸国記』では神武天皇を狭野と表記しており、そこから陜野(侯)という名の 発想が生じたのだと考えられる。ただ『海東諸国記』は日本でいえば江戸時代の書物で、神武天皇を 日本書紀の引用により紹介したものだからその表記に(呼びつけの点はさておき)問題はない。 (江戸時代当時の朝鮮人はこれをサヌとは読めないかもしれないが、日本書紀の引用として 同じ漢字で表記するのは当時のマナーとしてむしろ常識的といえる。) ところが桓檀古記の場合はそうはいかない。あくまで朝鮮から出発した人物「陜野」と主張するのだからそれは サヌではなく音読みでしか読めないことになり、もともとそのような名前だったと 強弁していることになる。 たとえば「野」の字についていえば、彼らの主張からすれば本来「ヤ」音を表した もので日本で勝手に「ノ」と読み替えたということになる。ここでも珍事態が生じているわけだ。 (正確にいうと、さらなる付加事情として、陜野侯については偽作者の製作途上における表記が少し異なる という論があるが、結論に大差ないので、煩雑を避けるためここでは割愛する。) 補注C 陜野奴と陜野侯の別人説 ある意味どうでもいいことだが、韓国のサイトでは、 (本文でも述べたように)「陜野」の自立の点について三十六世檀君の項目に記載が ない矛盾を解消するために、陜野奴と陜野侯の別人説が行われているようだ。 陜野奴は倭の地で自立した人物なので神武天皇とするが、 陜野侯裵槃命の方は裵槃pebanを稲飯と読み換え、神武天皇(狭野尊)の兄の「稲飯命(いなひ の みこと)」と解釈するものである。 稲のことを半島の方言でpeというらしいので、稲飯の「稲」を韓流訓読み?でpeと読み、飯は音読みでban と読むと裵槃pebanと同じになるという理屈である。 これでもっともらしい理屈をつけたつもりでいるようなのだが、そもそも桓檀古記で陜野侯による平定の時期が 神武東征に合わせてあることに注目されたい。 そこに神武天皇とは別人の稲飯命だけが陜野侯として登場するのは妙だ。 それは文書製作者の意思を誤解している可能性がある。 実は、稲飯命は、日本書紀より後代の書(新撰姓氏録)において、新羅と関連付けられている人物であり、 日韓併合期においては、稲飯命が新羅に赴いたとか、逆に新羅から到来したなど、民間の言論で取り沙汰されていた。 偽作者はおそらくこの議論をどこかで見たうえで、それならいっそ、「神武天皇は実は稲飯命と同一人物で、 新羅から到来した」としてしまえば都合が良い、と思ったのではないか。 そして、そういう眼で神武天皇の御名(おくり名)「神日本磐余彦(かんやまと いわれひこ)」を見た時に、偽作者はそこにpeban的な二文字を 見出したのだと考えられる。──「本磐」の二文字である。 「本pon」と「pe」とでは似ていないようであるが、古く半島では「城邑」を表す語に本・㶱・火・伐の字を宛てて 表記することがあり、それらの字で表そうとした音は古代半島語では perのような音だったとされている。(現代朝鮮語「火(fire)」=「プル」参照。) こういったことを考慮し、桓檀古記の著者は(神日)本磐(余彦)尊=稲飯尊=裵槃命と匂わせる細工を行ったものと考える。 槃の字が磐の字と同音banで般の部分も共通する字であることは、このことを裏付けるものだろう。 いずれにしても、もし彼らの主張を信じるなら、裵槃pebanという人物を日本書紀の編集者か誰かが 「稲飯」と書き換えたことになるがありうるだろうか? 裵の字についてはpeという新羅語?の知識を利用して稲と書き換えた上で、槃は同じbanという音をもつ飯で 置き換えた、となるわけだが、常識的にみてそんな間の抜けた置き換えをするわけがないだろう。 |
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