桓檀古記の驚くべき妄想②

~日本に関連した部分を中心に・続~

(関連ページ一覧)

『桓檀古記』の驚くべき妄想①~ 日本に関連した部分を中心に~

『桓檀古記』の驚くべき妄想②~ 日本に関連した部分を中心に・続~ 

   『桓檀古記』 の驚くべき妄想②


更新履歴     令和4.12.15作成 
[このページの目次]
■扶余王が3世紀末に倭人を平定して王になった?
■阿蘇山の南は扶余人の居留地?
■大隅国に南沃沮人が集団移住?
■高句麗の王臣が阿蘇へ移り建国し 熊本へ移動?
■伝説の皇帝・禹も檀君の王子の助けにより治水?


━━━━━━━━━━              


桓檀古記の驚くべき妄想①のページ では、『桓檀古記』に登場する神武天皇やスサノオ尊とおぼしき人物についての記載を 例に挙げて、そのデタラメさをご紹介した。

引き続きこのページでは、それ以外で、日本が関係してくる部分を採りあげ、同様にその珍妙さを紹介していく。
こちらのページで扱う部分に関して偽作者が取っているやり口としては、魏志倭人伝的な記述を引用しつつ、倭人の世界の重要部分に実は 半島人が入植していたり、檀君系王朝(高句麗など)の支配が部分的に及んでいたことにしてしまう という方法である。
一見目新しい情報に見えるため、民間の古代史愛好者でも飛びついてしまう場合があるのだ。
その意味でも要注意といえる。
(このページは魏志倭人伝や日本書紀の任那諸国の記載等の知識があった方が理解しやすいが、 そうでなくてもできるだけ分かるように構成した。)

■扶余王が3世紀末に倭人を平定して王になった?


『桓檀古記』 ~大震国本紀 より

正州は昔、依慮の国、都とせる所なり。鮮卑・慕容廆の敗る所となる。(中略)
密かに子・扶羅に嘱ね、白狼山を踰えて 夜 海口を渡らしむ。
従う者数千、遂に渡り、倭人を定めて王となる。

 
[現代語訳]
((震(しん)国[=渤海(ぼっかい)国][7世紀末から10世紀まで満州方面にあった国]の)
"正州(せいしゅう)[今の吉林省通化市]" は、
(そもそも渤海よりさらに)昔、(渤海の建国からさかのぼること約400年前) (扶余王の)依慮(いりょ)の国があって、都を置いていたところである。
(扶余王依慮は西暦285年に)鮮卑(せんぴ)の慕容廆(ぼようかい)に敗れた。(中略)
(依慮はその際)密かに子の扶羅に指示し、白狼山を越えさせ、夜に海口を渡らせた。
(子の扶羅に)従う者の数は数千であった。
(子の扶羅は)遂に(海を)渡り、倭人を平定して王となった。

    (注)★扶余は東夷の一種で、満州方面の一部に国を有していた。
「晋書」東夷伝によると、大康6(西暦285)年扶余王依慮は自殺し、子弟は沃沮(よくそ)の地へ走ったとある。
王子が南下したとの説は桓檀古記独自の異説である。

或は云う、依慮王、鮮卑の敗る所となり、逃れて海に入りて還らず。
子弟走って北沃沮を保つ。
明年、子・依羅立つ。自後、慕容廆 また復び国人を侵掠す。
依羅、衆数千を率い、海を越え、遂に倭人を定めて王となる と。

 
[現代語訳]
(あるいは、次のようにも云われる。
(扶余王の)依慮王は鮮卑に敗れ、逃れて海に入って帰らなかった。
子弟は移動して、北沃沮(きたよくそ)を保った。
[※沃沮は半島東部~東北部方面にいた種族名。ここでは地域名の扱いらしい。]
翌年、(依慮の子の)依羅が即位した。この後、(鮮卑の)慕容廆は再度国や民を侵し掠奪した。
依羅は数千の民を率いて海を越え、遂に倭人を平定して王となった、と。
   
(注)★王子の名が扶羅であるにせよ依羅であるにせよ、倭の地へ入った人物とされている。
これを信ずるならば、3世紀にこの王子が日本を征服して王になったことになる。
そこで鹿島曻はその著書で繰り返し「扶余王依羅が(第10代)崇神天皇となった」と主張した。
しかし依羅は実際には沃沮方面へ一旦逃れた後、帰還して王位に返り咲いたとされているのだ。
日本で王位につくのは難しそうである。
 
韓国のサイトを検索してみると、父親の依慮王まで日本にいったことにしているサイトまであるようだ。
依慮王が「海に入った」と桓檀古記にあることからの連想だろうが、第7代孝霊天皇にあたるのだとか。どうみても無理な話である。
 
さらには王子の依羅が大陸を去ったと見るのは難しいと思ったのか、父親の依慮王は孝霊天皇で、 崇神天皇となったのは扶余王家とは別の人物とするサイトまであった。

■阿蘇山の南は扶余人の居留地?


日本 旧くは伊国にあり。亦伊勢と曰い、倭と同隣す。
伊都国は筑紫にあって亦即ち日向国なり。
これ以東、倭に属す。
その東南 は安羅に属す。安羅はもと忽本の人なり。
北に阿蘇山あり。
安羅、後に任那に入る。
高句麗ともはや親を定む。

 
[現代語訳]
日本は古くは伊国にあった。また伊勢ともいい、倭と隣り合っていた。
伊都国は筑紫にあって、また日向国ともいう。
    伊都国は魏志倭人伝上の邪馬台国連合の一国。福岡県の糸島半島辺りといわれる。
ここからなぜか魏志倭人伝のパロディのような文章が始まるが、案外真面目に受け取っている人も多いので問題をはらむ。

この(伊都)国より東は、倭に属する。
    (注)★日本・伊勢・倭などの関係がほとんど理解不能とも思えるが、
『旧唐書』は日本と倭が併存していた時期があると捉えておりその発想を借りたものであろう。
そして、倭の東側の伊勢のあたりに日本があると解釈するのはおそらく彼らの意図に反する。
むしろこの伊勢は伊都の別名か何かのつもりだろうと捉えた方がよさそうだ。そう解した時に、九州に倭に属さない安羅 などの勢力(下記参照)があり、日本とはそれらの総称で倭とは別である、という趣旨の文章ではないかと読み取ることができる。

(一方)その(伊都国の)東南は(倭でなく)安羅に属する。
    注・安羅というと通常、6世紀頃まで半島最南端にあった小国のことを指す。その飛び地という趣旨らしい。
桓檀古記独自の異説である。
そもそも筑紫の伊都国以東が倭に属すというのは、隋書東夷伝に「竹斯(ちくし) 国以東は皆倭に附庸する」 とあるのを借用した表現と思われるが、
それは別に竹斯国以が他の国に附属するという意味ではなく、隋書では阿蘇山も倭の一部として 紹介されている。
ところが桓檀古記では、(もっと昔の状態を表したにせよ)筑紫の伊都国より東は倭に属すると述べた直後に、 伊都国の東南は・・・とトンチか何かのように始まっている。
このあたりが、限りない脱力感を催させる。

安羅はもと忽本(こつほん)(卒本扶余(そつほんふよ)。満州方面)から到来した人々である。
(伊都国の東南の安羅の地には)北に阿蘇山がある。
    (注)卒本扶余は今の遼寧省桓仁あたりをさす。一方、安羅は一般の理解では半島最南端の小国の一つであり、 倭人に近いというニュアンスで語られることが多い。
ところがここでは全く別の異説が提示されており、しかも九州の一部にまでその安羅があることになっている。

安羅は後に任那に入る。 (※桓檀古記でいう任那は半島南部でなく対馬にあったというが、安羅がそこに加入して広域任那となるとかいう話)
(安羅は)高句麗と早くから友好関係を結んでいた。
    ★大震国本紀は渤海の歴史を語っているはずなのに脱線がすごい。昔の扶余王子依羅のストーリー に続いていることからして、依羅一行は九州に入ったといいたいのかもしれない。

■大隅国に南沃沮人が集団移住?


末盧国の南を大隅国という。始羅郡あり。もと南沃沮人の聚まる所なり。
南蛮 屠帎彌、皖夏、比自㶱 の属、皆貢す。
南蛮は九黎の遺種にして、山越より来れる者なり。
比自㶱は弁辰比自伐人の聚落なり。
皖夏は高句麗の属奴なり。

 
[現代語訳]
末盧(まつろ)国の南を大隅国という。
    注・末盧国は魏志倭人伝上の邪馬台国連合の一国。通説では九州の松浦半島にあったとされる。
大隅国というのは魏志倭人伝に登場しない。律令制の大隅国(おおすみのくに)(鹿児島県のおおよそ東半分) で、和銅6(西暦713)年成立の新しい呼び名であって古事記にもその国名は見えない。
従って桓檀古記のこの部分の記載は珍妙極まるといえる。
鹿児島県のサイトの『大隅国の成立』https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/pr/gaiyou/rekishi/genshi/osumikoku.html 参照。
末盧国の南に大隅国というのは位置的にも矛盾している。
また、桓檀古記は漢文を使用して朝鮮で作られた本だから、大隅をおおすみとは読めない。この点も珍妙。


[大隅国の中には]始羅(しら)という場所があるが、そこはもと(半島の)南沃沮(みなみよくそ)人が 集団居住していた場所であった。
    注★始羅(しら)という名前で新羅との関係を匂わせたつもりらしい。
しかしそれは以下の理由により間違いである。

たしかに、大隅国には律令時代の古い郡で姶羅郡という郡がかつて(大隅半島内に)あったが、
それは(あいら)であって(しら)ではない。
姶羅(あいら)は由緒ある地名で、吾平などの表記もある。
なお、南沃沮人云々というのは桓檀古記独自の異説である。

ちなみに別の場所(鹿児島湾北方)に一時期「始羅(しら)郡」というのもあった(江戸時代頃)。
これは近世に大隅国「桑原(くわばら)郡」から一部(帖佐郷など)を独立させて一郡としたもので、古い郡名ではない。

南蛮屠帎彌皖夏(かんか)比自㶱(ひしほ) の類は、みな来貢した。
(前の一文とのつながりが不明確だが、これらの族は「大隅国」内の族か、そうでなくても 九州のどこかの部族のつもりなのだろう。

(このうち)南蛮とは、九黎(きゅうり)(本頁末尾の注参照)の遺種であって、(中国東海岸の南方の)山越(さんえつ)地方より 来た者である。
比自㶱(ひしほ)は、「(半島南部に2世紀ぐらい迄存在した)弁辰比自伐(国)」(の)人が(南に移り住んだ)集落である。
皖夏(熊本方面の国。詳しくは後ほど記載。)は、高句麗に属するしもべである。

    [このような部族(南蛮屠帎彌・皖夏・比自㶱)の集落が九州にあって、半島の属国だった といいたいらしいのだが、「南蛮」「屠」等の字から元ネタが透けてみえる。
日本書紀で、神功(じんぐう)皇后が半島の諸部族を退治する場面があるが、そこで
皇后は(半島南部の)比自㶱など7ヶ国を平定された後、西に回って 「南蛮の忱彌多禮(とむたれ)(※半島南西部の済州島にあった耽羅(たむら)国)」を斬って、百済に下賜したという。

その最後の部分は日本書紀の漢文で

屠南蛮忱彌多禮 以賜百済(南蛮の忱彌多禮を屠って 以って百済に賜う)
となっている。
皇后が平定された地は比自㶱にしろ南蛮の忱彌多禮にしろ半島南部なのだが、
桓檀古記をよく観察すれば、そのような名前に似せた集落を日本にあったことにしてしかも半島の属国だったことにしてしまおうという 魂胆が見えてくる。
というのも、「南蛮」「屠」「忱彌」の五字までも日本書紀の上記記載と一致しているのは偶然とは思われない からだ。
しかも「屠」は書紀では「~を殺す」と云う意味で使われている動詞なのに、固有名詞と勘違いしたのではないかという お粗末さまで露呈しているのである。(帎は忱の異体字。)
(注)皖夏という国がなぜ登場するか、一見謎だが、この後にでてくる多婆那国の別名 琓夏国 と関連する。そちらを参照されたし。


時に倭人、分かれて山島に拠り、各々百有余国あり。
その中狗邪韓国 最大にして、もと狗邪本国人の治むる所なり。
海商船舶、皆種島に会して交易す。
魏・呉・蛮越の族 皆通ず。
始め一海を渡り、千余里にして対馬国に至る。方四百余里なるべし。
又一海を渡り、千余里にして一岐国に至る。方三百里なるべし。
もと斯爾岐国なり。子多の諸島、皆貢す。
又一海を渡り、千余里にして末盧国に至る。もと挹婁人の聚まる所なり。
東南に陸行すること五百里にして伊都国に至る。乃ち盤余彦の古邑なり。

 
[現代語訳]
時に、倭人は 集団ごとに分かれて山島を根拠地とし、百余国に分かれていた。
その中で最大なのが狗邪韓国(くやかんこく)であって、もと
狗邪本国人(半島南端にかつてあった弁辰狗邪国)が治めていた。
    ※狗邪韓国は、魏志倭人伝で倭の北岸にあるとされている国で、通常弁辰狗邪国と同じ場所 つまり半島内の国であると考えられているが、 桓檀古記はここでも異説を述べている。
狗邪韓国を九州の一部に存在する倭人の国としたうえで、弁辰狗邪国の属国と捉えているのである。

海商船舶はみな種が島に集結して交易していた。
魏・呉・蛮・越の族は皆この地を介して交わりがあった。


(半島から)始め一海を渡り、千里あまりを進むと対馬国に至る。四百余里四方程度の広さがある。
[※以下は魏志倭人伝における倭に到る経路の一部(対馬→一岐→末盧→伊都) をほぼそのまま転写した上で時々余計な言葉を付加している。]
また一海を渡り、千里あまりを進むと一岐国(壱岐島)に至る。三百里四方程度の広さがある。
(一岐国)はもと斯爾岐国であって、子多の諸島は皆来貢してくる。
[※斯爾岐国は半島南部・任那の一国であった斯二岐(しにき) 国を思わせる名だが、 それを壱岐の別称にするのは桓檀古記独自の説。]

また一海を渡り、千里あまりを進むと末盧(まつろ)国に至る。もと挹婁(ゆうろう)人が集団居住した所である。
[※末盧国は既出のように松浦半島あたり。挹婁云々は桓檀古記独自の説。
挹婁は東北アジアの蛮族。その辺りには靺鞨・挹婁というような族が居住していた。末盧の名称から 勝手に連想したものに過ぎない。]


東南に陸行すること五百里で伊都国(福岡県糸島半島)に至る。

伊都国は盤余彦の古邑である。
    ※盤余彦とは九州の日向から進軍して大和地方で即位された神武天皇のおくり名「神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)」のこと と考えられる。
前にみたように桓檀古記では神武天皇を檀君に命じられて日本を制圧した人物と見ていることに注意。
桓檀古記は日向を宮崎でなく伊都国(福岡県)と見るので、伊都国を盤余彦の古邑としたものであろう。
神武天皇をそのような半島からの征服者に仕立てるためには、なかなか巧妙な日向の位置設定であるが、どこか
日本列島のことになると間が抜けている偽作者にしては、頭の回転が妙に良いのが逆に気になる。
もしかすると日向=福岡説をどこかから借用してはいまいか、という疑惑が出てくるわけである。
(注この点について、原田大六氏の『実在した神話』(1966年刊)の影響ではないかとの意見も既に出ている。 同書では日向=伊都国(福岡県)から神武天皇が出発したとし、伊勢神宮の原形も伊都国にあったとされて いるので、これが例の「日本は古くは伊国にあった。また伊勢ともいい…」と関係している可能性もある。)

『桓檀古記』~大震国本紀 からの引用はここまで。

■高句麗の王臣が阿蘇へ移り建国し 熊本へ移動?

これ以下は『桓檀古記』~高句麗国本紀 からの引用である。

これより先、陜父、南韓に奔って馬韓の山中に居る。
(中略)陜父、乃ち将・革を知り、衆を誘って糧を確保し、舟で浿水に従って下り、
海浦に由り密かに航し、直ちに狗邪韓国に到る。
すなわち加羅海の北岸なり。
居ること数月、転じて阿蘇山に徙ってこれに居る。
これを多婆那国の始祖と為すなり。
後に任那を併せて聯政し、以て治む。三国は海に在って、七国は陸に在り。

 
[現代語訳]
(高句麗の公開土(こうかいど)(好太王)[4世紀末~5世紀初頭]についての記載の途中で:)
これより以前
陜父(きょうほ)という人物 (高句麗初代の朱蒙が即位前に扶余から南方へ脱出する時の家来の一人) は南韓に奔(はし)って馬韓の山中に居た。
(※三国史記によれば陜父は高句麗二代目瑠璃王の不興を蒙ったため南韓へ行ったとある。
この後の部分は桓檀古記独自の物語)。

(中略)陜父は将・革を知り(将革を知りの部分の解釈は複数説あり)、民衆を誘って 食糧を確保し、舟で浿水に従って下り、
海浦に沿って密かに船で移動し、すぐに狗邪韓国(くやかんこく)に到着した。
すなわち加羅海の北岸である。
(陜父は)そこに居ること数月の後、場所を阿蘇山に移転してそこに居住した。
これが、多婆那(たばな)の始祖である。
(多婆那国は)後に任那を併せて聯政として治めた。
(そのうち)三国は海(おそらく九州方面)に在って、七国は陸(おそらく半島内部を指す)に在った。
    ※陜父(きょうほ)が九州に来たという物語は何か物凄い特殊情報のようにも思えるらしく しばしばブログ等で引用されるが、実は創作しようと思えば簡単に出来るものでもある。
種明かしをすると、「多婆那国」がミソである。
三国史記によれば、新羅第2代の脱解王は「倭国東北一千里の多婆那国」で生まれ、箱に入って 新羅の海に流れついたとされる。
この多婆那国は、丹波であるとか、熊本の玉名であるなどの説が出されていて、
それゆえこの昔氏の脱解王は倭人出身ではないかとさえいわれる。
この状況を半ば利用し、半ば抵抗するのが偽作者の思いついたアイデアなのだろう。
高句麗から南韓まで南下してきたと三国史記に記された「陜父」はその後の消息が不明な人物である。
そこで、「陜父」を九州の熊本にまで南下したことにしてしまい、そこに多婆那国(熊本説)を つなげてしまうというやり方である。
そうすれば多婆那で生まれた新羅第2代脱解王は倭人でなく高句麗出身とできるわけだ。


始め弁辰狗邪国の人、先ず団聚すること在り。
これを狗邪韓国と為す。

多婆那は一に多羅韓国と称す。
忽本より来たり、高句麗ともはや親を定む。
故に常に烈帝の制する所となる。
多羅国は安羅国と同隣にして同姓なり。
旧、熊襲城を有す。今、九州の熊本城これなり。

 
[現代語訳]
始め弁辰狗邪(べんしんくや)国の人が先に(九州島に)集団居住することがあった。これを狗邪韓国と呼んだ。
(一方、同じ九州の)多婆那(たばな)は多羅(たら)韓国と称することもある。
(多婆那は先祖の陜父が)(扶余の)忽本(こつほん)より来ているという由来から、高句麗と早くから友好関係を結んでいた。
それゆえ常に烈帝(高句麗の公開土王)の統制下にあった。
多羅国は安羅国(阿蘇山の南の地域)と隣接しており(共に忽本出身なので)同姓である。
多羅国には昔、熊襲(くまそ)城があった。今、九州の熊本城がこれである。
    多羅は半島南部の加羅諸国の一つであるが、 それが熊本にもあり、多婆那国でもあるという。 これは熊本の「多婆那」と「多羅」の音の類似性から 思いついた話ではないか。
そもそも、いわゆる脱解王の故郷である「倭国東北一千里の多婆那国」 の比定地のうち(熊本の)「玉名」はあまり有力でないのが実態なので、ずいぶん無理をしているようにも見える。

    多婆那国は先述のように新羅第2代の脱解王の故郷とされている(『三国史記』)が、 『三国遺事』では同じ国が「琓夏国」などの別名で呼ばれている。
桓檀古記では先に見たように九州にいた「高句麗の属奴」として「皖夏」が登場するが、 多婆那国とほぼ同じようなもの(高句麗人のなれの果て)といいたいのであろう。


倭は会稽郡東冶県の東に在り。
舟にて九千里を渡り、那覇に至る。
又一千里を渡りて根島に至る。
根島はまた柢島と曰う。
時に狗奴人、女王と相争い、路を索すこと甚だ厳し。

それ狗邪韓に往かんと欲する者は、蓋し津島、加羅山、志加島に由り、始めて末盧戸資の 境に到るを得べし。
その東界は、則ち狗邪韓国の地なり。

 
[現代語訳]
倭は(中国の)会稽(かいけい)郡 東冶(とうや)県の東に在る。
(会稽の東冶より)舟で九千里を渡ると、那覇に至る。
また一千里を渡ると根島に至る。
根島はまた柢(てい)島と曰う。
時に、狗奴人は、(倭の)女王と互いに争い、 往来の路を索す(探索の意とされるが、紊(みだす)の誤字かも)ありさまが はなはだ強烈であった。
    注・魏志倭人伝等で、倭の位置を会稽東冶の東とする記載があり、事実と異なるとして 解釈上問題となることがある。(会稽郡東冶県は今の福建省の一部。)
その部分を逆に利用しつつ、中国南部より沖縄経由で倭に到達するルートを論じている のだが、狗奴人が出てくるあたりに謎、あるいは馬脚?が隠れていそうだ。
(魏志倭人伝では邪馬台国は南に隣接する狗奴国と不仲だったとされている。 南方航路と狗奴国が関係する趣旨とすると、何かが煮詰まってきそうだがここでは割愛したい。

狗邪(くや)韓に行きたいと思う者は、おそらく津島(つしま)、加羅山、志加島(しかのしま)を経由して、 始めて末盧(まつろ)戸資の境に到ることができるだろう。
その東界はすなわち、狗邪韓国(くやかんこく)の地である。
    この狗邪韓国は、九州の一部を指しているつもりらしいが、その航路を見ると、南方航路と関係なさそう に見える。偽作者の理解・意図やいかに?

■■伝説の皇帝・禹も檀君の王子の助けにより治水?

会稽山は、もと神市の中経の蔵せられたる処なり。
司空・禹、斎戒すること三日にして得、乃ち治水に功あり。
故に禹、石を伐って扶婁の功を山の高処に刻めりと云う。
則ち呉越はもと九黎の旧邑なり。
山越と左越は、皆その遺裔の分遷せる地なり。
常に倭と往来し、貿販して利を得る者漸く多し。
秦の時、徐巿、東冶の海上より直ちに那覇に至り、種島を経て瀬戸内海に沿い、始め、紀伊に到る。
伊勢に旧もと徐福の墓祠有り。或いは曰く、「亶洲は徐福の居る所なり」と云う。

 
[現代語訳]
会稽(かいけい)(淅江省紹興市に所在)は、 もと神市(しんし)の『中経』が保管されていた場所である。
    この会稽は、上記 会稽・東冶の会稽だから、また倭への南方航路の話になっているように見える。
(なお神市(しんし)は初代檀君の前代までの桓雄時代の都の名前。中経はこのあとに出てくるように天から授けられた 治水法の極意を記した書という設定。)

司空(治水を担当する役職)に任ぜられていた禹(う)(のちに伝説上の中国の皇帝になる人物で、淅江省会稽山に大禹陵がある) は、斎戒すること三日にして『中経』を得て、 それにより治水の功をたてたのである。(中国の文献上、禹が
天から授与されたのは洪範九疇のはずで、それを檀君文明由来の『中経』に置き換えている)


それゆえ禹は、石を切り出して扶婁(ふる) (檀君の子で、檀君文献的には 禹の治水に貢献したとされる)の功績を山の高所に刻んだと云う。

したがって呉越地方はもと(東夷である[下注参照])九黎(きゅうり)の古い集落である。
山越(江蘇省にいた異民族)と左越は、皆その(九黎の)遺裔が分かれて遷った地である。
常にと往来し、貿易して利益を得る者がしだいに多くなった。
秦の時に徐巿(じょふつ)(つまり徐福)は、東冶の海上より直ちに那覇に至り、種島(たぶん種子島)を経て 瀬戸内海に沿い、はじめに紀伊に到った。
[徐福伝説の類であるが、那覇・種子島経由となっているのは亶洲の関係などから導くことのできる説である。
ちなみに瀬戸内海は江戸末期もしくは明治以降の言い方である。

伊勢にもと徐福の墓祠があった。もしくは「亶洲は徐福の居る所である」とも云う[これもいわゆる徐福伝説の類である]
    注★九黎は中国南方の部族を指すはずだが、桓檀古記では檀君の民である九夷と同一視されているので、 そのような民が倭人を管理したといいたいのであろう。

    ★中国の伝説的皇帝として堯・舜・禹の三代は有名だが、舜の部下として治水を成功させた 禹は、後に諸侯を塗山の会議に招いたとされている(『春秋左氏伝』)
これに関して近世の檀君伝説では、檀君王倹の王子扶婁がその会議への参加を要請されたと言われていた ようだ(あくまで禹が上位の立場)。
ところが桓檀古記の場合は、舜も禹も檀君の臣下とされるので、扶婁の話もそれにあわせたバージョンに 作りかえられている(『桓檀古記』 太白逸史 三韓管境本紀 番韓世家上参照)
禹と扶婁の話は、檀君の物語としては割と有名なエピソードであることから発想し、しかも中国の書物で 越などの南方部族が禹の子孫であるとされたりすることを利用し、それと倭人が交渉していたという シナリオを描いてみせたに過ぎない。なぜこれが「高句麗国本紀」の一部なのかもはや不明である。

『桓檀古記』~高句麗国本紀 からの引用はここまで。


あとがき

以上のように、『桓檀古記』が倭人伝の時代の日本まで檀君朝鮮や高句麗の影響下にあったことにしている書物であることは、 頭の隅に置いてもよいだろう。
一般論として、どのような世界であっても、飛び地とかの類があってもおかしくないとはいえるのかも しれない。しかし、何か恨みの感情のような動機から、デタラメを書いていたとしたらどうするのか。 偽作者のやり口を見抜きやすいよう構成してみたつもりである。
ただその分わかりやすさが犠牲になった面があるかもしれず、その点はご容赦頂きたい。


桓檀古記は、稚拙な書物だが、外国にまで発信されつつあるという現状に留意されたい。



(c)2022 古代史Tips

無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう