桓檀古記の驚くべき妄想②
~日本に関連した部分を中心に・続~
(関連ページ一覧)
『桓檀古記』の驚くべき妄想①~ 日本に関連した部分を中心に~
『桓檀古記』の驚くべき妄想②~ 日本に関連した部分を中心に・続~
『桓檀古記』 の驚くべき妄想②
更新履歴 令和4.12.15作成
[このページの目次]
■扶余王が3世紀末に倭人を平定して王になった?
■阿蘇山の南は扶余人の居留地?
■大隅国に南沃沮人が集団移住?
■高句麗の王臣が阿蘇へ移り建国し 熊本へ移動?
■伝説の皇帝・禹も檀君の王子の助けにより治水?
━━━━━━━━━━ 桓檀古記の驚くべき妄想①のページ では、『桓檀古記』に登場する神武天皇やスサノオ尊とおぼしき人物についての記載を 例に挙げて、そのデタラメさをご紹介した。 引き続きこのページでは、それ以外で、日本が関係してくる部分を採りあげ、同様にその珍妙さを紹介していく。 こちらのページで扱う部分に関して偽作者が取っているやり口としては、魏志倭人伝的な記述を引用しつつ、倭人の世界の重要部分に実は 半島人が入植していたり、檀君系王朝(高句麗など)の支配が部分的に及んでいたことにしてしまう という方法である。 一見目新しい情報に見えるため、民間の古代史愛好者でも飛びついてしまう場合があるのだ。 その意味でも要注意といえる。 (このページは魏志倭人伝や日本書紀の任那諸国の記載等の知識があった方が理解しやすいが、 そうでなくてもできるだけ分かるように構成した。) |
■扶余王が3世紀末に倭人を平定して王になった?
『桓檀古記』 ~大震国本紀 より 正州は昔、依慮の国、都とせる所なり。鮮卑・慕容廆の敗る所となる。(中略) 密かに子・扶羅に嘱ね、白狼山を踰えて 夜 海口を渡らしむ。 従う者数千、遂に渡り、倭人を定めて王となる。 [現代語訳] ((震(しん)国[=渤海(ぼっかい)国][7世紀末から10世紀まで満州方面にあった国]の) "正州(せいしゅう)[今の吉林省通化市]" は、 (そもそも渤海よりさらに)昔、(渤海の建国からさかのぼること約400年前) (扶余王の)依慮(いりょ)の国があって、都を置いていたところである。 (扶余王依慮は西暦285年に)鮮卑(せんぴ)の慕容廆(ぼようかい)に敗れた。(中略) (依慮はその際)密かに子の扶羅に指示し、白狼山を越えさせ、夜に海口を渡らせた。 (子の扶羅に)従う者の数は数千であった。 (子の扶羅は)遂に(海を)渡り、倭人を平定して王となった。
或は云う、依慮王、鮮卑の敗る所となり、逃れて海に入りて還らず。 子弟走って北沃沮を保つ。 明年、子・依羅立つ。自後、慕容廆 また復び国人を侵掠す。 依羅、衆数千を率い、海を越え、遂に倭人を定めて王となる と。 [現代語訳] (あるいは、次のようにも云われる。 (扶余王の)依慮王は鮮卑に敗れ、逃れて海に入って帰らなかった。 子弟は移動して、北沃沮(きたよくそ)を保った。 [※沃沮は半島東部~東北部方面にいた種族名。ここでは地域名の扱いらしい。] 翌年、(依慮の子の)依羅が即位した。この後、(鮮卑の)慕容廆は再度国や民を侵し掠奪した。 依羅は数千の民を率いて海を越え、遂に倭人を平定して王となった、と。
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■阿蘇山の南は扶余人の居留地?
日本 旧くは伊国にあり。亦伊勢と曰い、倭と同隣す。 伊都国は筑紫にあって亦即ち日向国なり。 これ以東、倭に属す。 その東南 は安羅に属す。安羅はもと忽本の人なり。 北に阿蘇山あり。 安羅、後に任那に入る。 高句麗ともはや親を定む。 [現代語訳] 日本は古くは伊国にあった。また伊勢ともいい、倭と隣り合っていた。 伊都国は筑紫にあって、また日向国ともいう。
この(伊都)国より東は、倭に属する。
(一方)その(伊都国の)東南は(倭でなく)安羅に属する。
安羅はもと忽本(こつほん)(卒本扶余(そつほんふよ)。満州方面)から到来した人々である。 (伊都国の東南の安羅の地には)北に阿蘇山がある。
安羅は後に任那に入る。 (※桓檀古記でいう任那は半島南部でなく対馬にあったというが、安羅がそこに加入して広域任那となるとかいう話) (安羅は)高句麗と早くから友好関係を結んでいた。
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■大隅国に南沃沮人が集団移住?
末盧国の南を大隅国という。始羅郡あり。もと南沃沮人の聚まる所なり。 南蛮 屠帎彌、皖夏、比自㶱 の属、皆貢す。 南蛮は九黎の遺種にして、山越より来れる者なり。 比自㶱は弁辰比自伐人の聚落なり。 皖夏は高句麗の属奴なり。 [現代語訳] 末盧(まつろ)国の南を大隅国という。
[大隅国の中には]始羅(しら)郡という場所があるが、そこはもと(半島の)南沃沮(みなみよくそ)人が 集団居住していた場所であった。
南蛮の屠帎彌、皖夏(かんか)、比自㶱(ひしほ) の類は、みな来貢した。 (前の一文とのつながりが不明確だが、これらの族は「大隅国」内の族か、そうでなくても 九州のどこかの部族のつもりなのだろう。 (このうち)南蛮とは、九黎(きゅうり)(本頁末尾の注参照)の遺種であって、(中国東海岸の南方の)山越(さんえつ)地方より 来た者である。 比自㶱(ひしほ)は、「(半島南部に2世紀ぐらい迄存在した)弁辰比自伐(国)」(の)人が(南に移り住んだ)集落である。 皖夏(熊本方面の国。詳しくは後ほど記載。)は、高句麗に属するしもべである。
時に倭人、分かれて山島に拠り、各々百有余国あり。 その中狗邪韓国 最大にして、もと狗邪本国人の治むる所なり。 海商船舶、皆種島に会して交易す。 魏・呉・蛮越の族 皆通ず。 始め一海を渡り、千余里にして対馬国に至る。方四百余里なるべし。 又一海を渡り、千余里にして一岐国に至る。方三百里なるべし。 もと斯爾岐国なり。子多の諸島、皆貢す。 又一海を渡り、千余里にして末盧国に至る。もと挹婁人の聚まる所なり。 東南に陸行すること五百里にして伊都国に至る。乃ち盤余彦の古邑なり。 [現代語訳] 時に、倭人は 集団ごとに分かれて山島を根拠地とし、百余国に分かれていた。 その中で最大なのが狗邪韓国(くやかんこく)であって、もと 狗邪本国人(半島南端にかつてあった弁辰狗邪国)が治めていた。
海商船舶はみな種が島に集結して交易していた。 魏・呉・蛮・越の族は皆この地を介して交わりがあった。 (半島から)始め一海を渡り、千里あまりを進むと対馬国に至る。四百余里四方程度の広さがある。 [※以下は魏志倭人伝における倭に到る経路の一部(対馬→一岐→末盧→伊都) をほぼそのまま転写した上で時々余計な言葉を付加している。] また一海を渡り、千里あまりを進むと一岐国(壱岐島)に至る。三百里四方程度の広さがある。 (一岐国)はもと斯爾岐国であって、子多の諸島は皆来貢してくる。 [※斯爾岐国は半島南部・任那の一国であった斯二岐(しにき) 国を思わせる名だが、 それを壱岐の別称にするのは桓檀古記独自の説。] また一海を渡り、千里あまりを進むと末盧(まつろ)国に至る。もと挹婁(ゆうろう)人が集団居住した所である。 [※末盧国は既出のように松浦半島あたり。挹婁云々は桓檀古記独自の説。 挹婁は東北アジアの蛮族。その辺りには靺鞨・挹婁というような族が居住していた。末盧の名称から 勝手に連想したものに過ぎない。] 東南に陸行すること五百里で伊都国(福岡県糸島半島)に至る。 伊都国は盤余彦の古邑である。
『桓檀古記』~大震国本紀 からの引用はここまで。 |
■高句麗の王臣が阿蘇へ移り建国し 熊本へ移動?
これ以下は『桓檀古記』~高句麗国本紀 からの引用である。
これより先、陜父、南韓に奔って馬韓の山中に居る。 (中略)陜父、乃ち将・革を知り、衆を誘って糧を確保し、舟で浿水に従って下り、 海浦に由り密かに航し、直ちに狗邪韓国に到る。 すなわち加羅海の北岸なり。 居ること数月、転じて阿蘇山に徙ってこれに居る。 これを多婆那国の始祖と為すなり。 後に任那を併せて聯政し、以て治む。三国は海に在って、七国は陸に在り。 [現代語訳] (高句麗の公開土(こうかいど)王(好太王)[4世紀末~5世紀初頭]についての記載の途中で:) これより以前 陜父(きょうほ)という人物 (高句麗初代の朱蒙が即位前に扶余から南方へ脱出する時の家来の一人) は南韓に奔(はし)って馬韓の山中に居た。 (※三国史記によれば陜父は高句麗二代目瑠璃王の不興を蒙ったため南韓へ行ったとある。 この後の部分は桓檀古記独自の物語)。 (中略)陜父は将・革を知り(将革を知りの部分の解釈は複数説あり)、民衆を誘って 食糧を確保し、舟で浿水に従って下り、 海浦に沿って密かに船で移動し、すぐに狗邪韓国(くやかんこく)に到着した。 すなわち加羅海の北岸である。 (陜父は)そこに居ること数月の後、場所を阿蘇山に移転してそこに居住した。 これが、多婆那(たばな)国の始祖である。 (多婆那国は)後に任那を併せて聯政として治めた。 (そのうち)三国は海(おそらく九州方面)に在って、七国は陸(おそらく半島内部を指す)に在った。
始め弁辰狗邪国の人、先ず団聚すること在り。 これを狗邪韓国と為す。 多婆那は一に多羅韓国と称す。 忽本より来たり、高句麗ともはや親を定む。 故に常に烈帝の制する所となる。 多羅国は安羅国と同隣にして同姓なり。 旧、熊襲城を有す。今、九州の熊本城これなり。 [現代語訳] 始め弁辰狗邪(べんしんくや)国の人が先に(九州島に)集団居住することがあった。これを狗邪韓国と呼んだ。 (一方、同じ九州の)多婆那(たばな)は多羅(たら)韓国と称することもある。 (多婆那は先祖の陜父が)(扶余の)忽本(こつほん)より来ているという由来から、高句麗と早くから友好関係を結んでいた。 それゆえ常に烈帝(高句麗の公開土王)の統制下にあった。 多羅国は安羅国(阿蘇山の南の地域)と隣接しており(共に忽本出身なので)同姓である。 多羅国には昔、熊襲(くまそ)城があった。今、九州の熊本城がこれである。
倭は会稽郡東冶県の東に在り。 舟にて九千里を渡り、那覇に至る。 又一千里を渡りて根島に至る。 根島はまた柢島と曰う。 時に狗奴人、女王と相争い、路を索すこと甚だ厳し。 それ狗邪韓に往かんと欲する者は、蓋し津島、加羅山、志加島に由り、始めて末盧戸資の 境に到るを得べし。 その東界は、則ち狗邪韓国の地なり。 [現代語訳] 倭は(中国の)会稽(かいけい)郡 東冶(とうや)県の東に在る。 (会稽の東冶より)舟で九千里を渡ると、那覇に至る。 また一千里を渡ると根島に至る。 根島はまた柢(てい)島と曰う。 時に、狗奴人は、(倭の)女王と互いに争い、 往来の路を索す(探索の意とされるが、紊(みだす)の誤字かも)ありさまが はなはだ強烈であった。
狗邪(くや)韓に行きたいと思う者は、おそらく津島(つしま)、加羅山、志加島(しかのしま)を経由して、 始めて末盧(まつろ)戸資の境に到ることができるだろう。 その東界はすなわち、狗邪韓国(くやかんこく)の地である。
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■■伝説の皇帝・禹も檀君の王子の助けにより治水?
会稽山は、もと神市の中経の蔵せられたる処なり。
司空・禹、斎戒すること三日にして得、乃ち治水に功あり。 故に禹、石を伐って扶婁の功を山の高処に刻めりと云う。 則ち呉越はもと九黎の旧邑なり。 山越と左越は、皆その遺裔の分遷せる地なり。 常に倭と往来し、貿販して利を得る者漸く多し。 秦の時、徐巿、東冶の海上より直ちに那覇に至り、種島を経て瀬戸内海に沿い、始め、紀伊に到る。 伊勢に旧もと徐福の墓祠有り。或いは曰く、「亶洲は徐福の居る所なり」と云う。 [現代語訳] 会稽(かいけい)山(淅江省紹興市に所在)は、 もと神市(しんし)の『中経』が保管されていた場所である。
司空(治水を担当する役職)に任ぜられていた禹(う)(のちに伝説上の中国の皇帝になる人物で、淅江省会稽山に大禹陵がある) は、斎戒すること三日にして『中経』を得て、 それにより治水の功をたてたのである。(中国の文献上、禹が 天から授与されたのは洪範九疇のはずで、それを檀君文明由来の『中経』に置き換えている) それゆえ禹は、石を切り出して扶婁(ふる) (檀君の子で、檀君文献的には 禹の治水に貢献したとされる)の功績を山の高所に刻んだと云う。 したがって呉越地方はもと(東夷である[下注参照])九黎(きゅうり)の古い集落である。 山越(江蘇省にいた異民族)と左越は、皆その(九黎の)遺裔が分かれて遷った地である。 常に倭と往来し、貿易して利益を得る者がしだいに多くなった。 秦の時に徐巿(じょふつ)(つまり徐福)は、東冶の海上より直ちに那覇に至り、種島(たぶん種子島)を経て 瀬戸内海に沿い、はじめに紀伊に到った。 [徐福伝説の類であるが、那覇・種子島経由となっているのは亶洲の関係などから導くことのできる説である。 ちなみに瀬戸内海は江戸末期もしくは明治以降の言い方である。] 伊勢にもと徐福の墓祠があった。もしくは「亶洲は徐福の居る所である」とも云う[これもいわゆる徐福伝説の類である]。
『桓檀古記』~高句麗国本紀 からの引用はここまで。 あとがき 以上のように、『桓檀古記』が倭人伝の時代の日本まで檀君朝鮮や高句麗の影響下にあったことにしている書物であることは、 頭の隅に置いてもよいだろう。 一般論として、どのような世界であっても、飛び地とかの類があってもおかしくないとはいえるのかも しれない。しかし、何か恨みの感情のような動機から、デタラメを書いていたとしたらどうするのか。 偽作者のやり口を見抜きやすいよう構成してみたつもりである。 ただその分わかりやすさが犠牲になった面があるかもしれず、その点はご容赦頂きたい。 桓檀古記は、稚拙な書物だが、外国にまで発信されつつあるという現状に留意されたい。 |
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